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寺の建物の礎石だけが残っている寂しいこの土地が、果たして額田王の終焉の地だったのか? ~再度忍坂を歩く(2019.3.13)③

粟田川沿いに上流へ30分ほど歩いただろうか。
《粟原寺(おおはらじ)跡》の看板があり、そこで川から離れて坂を上がって行く。
途中に《忍坂伝承地道》との細長い石標があった。
行きついた寺跡には、昔には三重塔と金堂などがあったという。
今はこれらの礎石であろうか、土に埋もれた大きな岩が20数個あるのみだ。
うちの一つは割れてはいるが丸い円形のくぼみがあり、これが三重塔の心柱を支えた岩かもしれない。

この三重塔の伏鉢(リンク:談山神社:文化財・社宝について)が現存しており、藤原鎌足を祭っている談山神社(リンク:談山神社について)に置かれている。
国宝となっているようだが、この寺の建立のいきさつが次のように刻まれているという。
《中臣大島が草壁皇子のため発願し、比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)が持統天皇8年(694年)から造営を始め、和銅8年(715年)に完成した》
この《比売朝臣額田》が額田王だと云われている。

持統天皇は天武天皇の妃である。
額田王は、天武天皇と同時代の人物であり、同天皇が即位する前の大海人皇子(おおあまのおうじ)と言われていた時代に同皇子の子を産んでいる。
草壁皇子は持統天皇の子であったが、若くして死亡した。
その冥福を祈るためにこの寺が建てられ、額田王がその造営の責任者であったということなのだろうか。

天武天皇の生まれたのは631年頃らしいというが、仮に額田王が10歳の年下だとすると、造営を始めた頃には彼女は50歳を超えており、完成の頃は実に70歳を超えていたことになる。
造営の責任者ではあっても、果たして現地にどれほど来たであろうか。
ましてやここで死んだなどということがあったであろうか。

《ここが額田王の終焉の地》という伝承もあるようだが、現地に建てられた説明板には、これは《史的考証》ではなく、《詩的確信》であると書かれていた。
なるほど、うまく言ったものだ。
この樹木に囲まれた狭くて陰気な場所が、あの初々しくて弾むような心を詠った女性の最後の地であったとは。
《詩的》表現をすれば、それが真実かどうかは、現在に永らえた礎石だけが知っているということになるであろうか。



粟原寺跡の状況



三重塔の心柱の礎石と思われる岩

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