銀閣寺の《銀》はどこにあるのか?
金閣寺は人気があるし、わかりやすい。
行けば、拝観客がいつも長い列を作っている。
金閣寺の正式な寺名が鹿苑寺であるのに、なぜ《金》閣寺なのかはだれでもわかるだろう。
境内に入れば、すぐに池上の黄金色の建物(舎利殿)があり、水面に映った姿とともに燦然と目に飛び込んでくる。
さて、それなら銀閣寺はどこに《銀》があるのか。
国宝である観音殿や方丈にはどこにも銀は使われていない。
庭の銀沙灘は小砂利が敷かれているにすぎない。
池も東山のふもとに広がる境内の木々にも、銀もなく、銀箔を貼ったものさえない。
銀閣寺がなぜ《銀》閣と呼ばれるのか、知っている人は少ないだろう。
鹿苑寺が《金閣寺》と江戸時代に呼ばれるようになり、
金閣寺の舎利殿と銀閣寺の観音殿が似ているから、《銀閣寺》と呼ばれるようになったという説がある。
金閣寺のは3層建だが、銀閣寺は2層である点を除けば、建物としては確かに似ている。
しかし、建物が似ているだけで銀閣と名づけられたのではないと思う。
私の意見(あるいは妄想というのが正しいというべきか)は、史実に基づくものとは言えないかもしれないが、案外、当たっているかもしれない。
金閣寺は足利3代将軍義満が、銀閣寺は8代将軍義政が造営した。
義満の時代は平和であり、将軍としての力も強く、金という高価なものを豊富に使うことができた。
それに対し、義政の時代は既に応仁の乱が始まっており、世の中が乱れていたのに加えて、彼自信が無能な将軍といわれているように自らの手で豊かな財源を作り出すような才覚もなかった。
しかし、それでも、金閣寺に対抗するような寺を作りたいと考えたに違いない。
義満が金なら、私は銀でやると考えた。
さて、どうするかと思い悩んだ義政が、ある夜、鴨川の橋を渡ったときだ。
流れる川の水に月の光が反射してきらきらと光っているのを見て、《これだ!》と気がついた。
銀を使わなくとも、銀があるように見えればよいのではないか。
庭に小砂利を敷けば、満月の夜などは月の光で銀のように見える。
砂利ばかりでなく、地面に筋をつければ、その影の黒さとの対比で銀色がいっそう引き立つのではないか(ぜんざいの甘さを増すために塩を入れるように)。
いやいや、銀のように見える必要さえない。。
銀と思う(見立てる)ことができればいい。
庭の池も月を映しているが、それも銀と見立てる。
緑の木々はほとんど黒にくすんでいるが、
月の光に浮かんでかすかに光を放っている。
これもいぶし銀と見立てることができる。
このように、義政の頭の中に、一瞬にして銀閣の構想が出来上がったのではなかろうか。
金閣は、単に舎利殿という建物という《点》だけが金だが、俺の銀閣は庭も周囲の山も全てのものが銀であり、決して義満には負けておらず、むしろこれを凌駕しているではないか。
義政はそう思ったに違いない。
こうして銀閣は出来上がった。
中天に昇った月の光のなか、義政は銀閣の庭の端に立っている。
何時間も身動きせずに立っていることもあれば、
誰に聞かせることもなくブツブツと何事かをつぶやいているときもある。
月はこのような義政を、いや、その周りの庭、池も木々もすべて慈しみをもって照らしている。
こんな情景を描けば、《慈照寺》というこの寺の名もおのずから納得できるのではなかろうか。
参考までに言えば、この寺名は義政の遺命により命名されたということだ。
(大澤龍司)