京都の栂尾の高山寺、ご存知だろうか。
京都駅から周山街道をバスで北に走って約50分、
鳥獣戯画があった寺であり、
歌で《京都~栂尾高山寺♪》というのもあった。
高山寺の裏参道
去年の2月、真冬にはじめて行って、
それから春、新緑、初夏、盛夏、紅葉のシーズンと、
年末まで7回ぐらい、行った。
桜は1本もないようだが、
秋の紅葉は美しい。
ここには石水院という建物がある。
仏像はなく、お寺臭さもなし、
普通の和風の家のようでのんびりできる。
この建物は国宝だが、
柱なんかはシロアリが喰ったのか、穴だらけである。
縁側は板目や節が浮き出している。
石水院の内部
山の中腹にあり、見晴らしもよい。
縁側に座って眺めれば
向かいの山、その後ろにも山、山が見え、
それが程よい遠さで重なっている。
下を流れる谷川の水音も耳に入ってくる。
石水院からの景色
拝観客もそれほど多くないから、
柱にもたれて縁側に座ったり、
人がいないときには畳に寝転んだりもして、
いつも1時間以上、景色を眺めていた。
昔、この寺に明恵上人がいた。
一生懸命に仏道の修行をしたようで、
寺の山の全ての木や石の上で座禅をしたという。
《明恵上人樹上座禅図》も残っている。
夢を詳しく日記にして残していたことから
《明恵 夢を生きる》という夢解釈の本を
心理学者の河合隼雄が書いている。
明恵上人樹上座禅図
石水院を気にいったせいで、
《ついでに》と言うと怒られそうだが、
明恵上人も好きになった。
座って山を見ているとき、
上人もこのような景色を見ていたのかと思う。
高山寺境内
山を見ているときによく考えることがある。
見る対象としての山があり、それを見ている自分がいる。
さらにこの山を見ている自分を意識しているもう一人の自分がいる。
このもう一人の意識する自分を消したいと。
山とそれを美しいと感じているだけの自分になれないかと。
明恵上人ぐらいの人なら、見ている自分を意識せずに
山と向かいあっていたことだろうと。
はるか向こうの山の尾根に1本の目立つ木がある。
おそらく松と思うが、勝手に《明恵の松》と名づけた。
新しい宗派を立てるわけではなく
都にでるでもなく、遠く隔たった山奥の寺におり
ただ黙々と修行に励んでいる明恵上人の姿と
その木のありようが重なるように思ったからである。
明恵の松
今まで他人がどう言おうが
そんなことはあまり気にせずに生きてきた。
他人の思惑など投げ捨ててきたが、
しかし、自分のこころの中だけは整理が難しい。
いっそ、詰まらない自意識などその木に掛け捨てて
山や空を直接、感じてみたいものだ。
(大澤龍司)