【新島襄と八重の墓は静かな山の中】
今年の6月、京都の「哲学の道」を歩いた。
琵琶湖疏水に沿った散歩道で、
この道の上流側の出発点が若王子神社である。
鳥居の前で《新島襄、八重の墓》という案内板を見つけた。
同志社大学の基礎を築いた人とその妻である。
いつか行きたいと思っていた。
今回(平成29年8月16日)哲学の道を歩いたので、訪ねてみた。
【《にゃくおうじ》ってどこ?】
《にゃくおうじ神社へ行ってくれます》と言った。
運転手の《うん?》という感じが伝わってきた。
一緒に乗った友人が
《わかおうじ神社です》というと、やっとタクシーが動き出した。
大阪生まれだが、母方が京都の《半京都人》が機転をきかした。
目的地について、念のために案内看板を確認すると
若王子神社《NYAKUOUJI・・》と記載されていた。
やはり《にゃくおうじ》で間違ってはいなかったのではあるが。
《Nyakuouji-jinja》と書かれている
【「女性の一人歩きは危険」な坂を上って行った】
墓への案内の看板には、墓まで徒歩20分とある。
細い坂道を上っていくようだ。
新島襄や八重にはあまり興味はないが、有名人の墓なので、きっと見晴らしがいいだろうと思った。
同志社大学(今出川)など、京都が一望できるに違いない。
坂の入り口には、《女性の一人歩きは危険です》という看板があった。
確かに道はせまく、薄暗かった。
途中、見晴らしの良い場所など全く1ケ所もなかった。
墓への道はこんな感じ
【新島襄・八重の墓は静寂】
2人で坂を上っていき、ちょっとしんどくなったなぁというタイミングで
左手に墓地が見え始め、その墓から更に3分ほど上ったところの左に目指していた墓があった。
新島襄(右)と八重(左)の墓
墓の周囲は木々に囲まれており、京都市内が一望どころではなく、
陽も十分に射すようには思えない薄暗い墓地であった。
なぜこのような場所を選んだのだろうか。
襄の墓の横に八重の墓もあった。
襄の墓から少し離れ、大きさもかなり小さい。
数年前のNHKの大河ドラマ「八重の桜」の主人公だった。
しかし、八重の説明文や看板などは一切、なかった。
【墓の字は勝海舟が書いたもの】
墓の前に説明看板があった。
碑銘は勝海舟の揮毫
墓に刻まれた字は勝海舟のものだという。
以前、勝海舟の《海舟語録》という本を読んだとき、
勝が《新島襄の同志社が潰れそうだ》としゃべっている箇所があった。
《海舟語録》表紙
勝と新島?どんな関係があるのだと不思議に思った。
新島襄をネット検索したところ、彼が《幕府の軍艦操練所》出身だと記載されているのを発見した(外部リンク:Wikipedia「新島襄」)。
勝は操練所のトップであり、その襄はその生徒だった。
勝が、かつての生徒であり、海軍軍艦の操船とは全く別の世界のキリスト教教育に乗り出した襄のことをも案じていたということだろうか。
【この道、この墓は新島襄にふさわしいのかも】
襄のことはほとんど知らない。
しかし、明治の初めにキリスト教教育を目指すという道を選ぶのは苦難の道であったろう。
襄は40代で死んだ。
そのときも、同志社の将来が明るかったわけではなかったろう。
そう考えると、この坂道、この墓、いずれも苦難に満ちたパイオニアであった彼の人生を反映したものだともいえるのかもしれない。
そして彼は今、妻と共に静かに眠っている。
(弁護士 大澤龍司)