昨年の大晦日の夜、京阪電車が東福寺駅に着くころには既に除夜の鐘が鳴り始めていた。
駅の改札口を出て約5分、東福寺の門前についた。
まだ、20代後半だろうか、若い僧が立っていた。
《見るだけになりますが、それでいいですか》と言われた。
《見るだけ? ん?》と思った。
鐘のついているのを見て、その音を聞く以外に何があるのだろう?
わからないままに、《いいです》と言って境内に入れてもらった。
境内は暗かったが、先に歩いていく人がいたのでついて行った。
階段があり、そこだけが照明で明るくなり、約100人程度の人がいた。
よく見ると、鐘楼への狭い階段があり、そこに人がならんでいた。
鐘が一つ鳴る度に人が降りてくる。
その度に、待っている人が階段を1つずつ、上がっていく。
そうか、そういうことか。
ここでは、見物客に鐘をつかせてくれるんだ。
門前で僧が言ったのは、《先着順で受付したので、除夜の鐘をつく人は満杯になった。鐘はつけませんがそれでもいいですか》という意味だったのだ。
その場でしばらく鐘の音を聞いていると、突然、拍手が沸いた。
またしても《ん?》と考えた、誰か有名人でも来たのだろうか?
しばらくして、わかった。
12時を過ぎたんだ、新年になったんだ。
応援や激励だけではなく、こんな時にも拍手をするのか。
《おめでとうございます》という言葉ではなく
新年になったという感動を拍手で表現するというような方法もあるのか。
東福寺は禅宗であり、《不立文字》などということがある。
禅の教えは文字や言葉などでは伝えられないという意味のようだ。
おめでとうの言葉ではなく、拍手という行為で新年を迎えるのは、このような禅宗の在り方と関係があるのか、それとも全く関係がないのか・・
除夜の鐘が心に沁みいる
ゴーンという響き、聞こえますか?