《宇陀千軒》の町並みを見るのに時間をかけ過ぎた。
時計を見るともう4時前になっていた。
必死に自転車のペダルをこいで
《かぎろいの丘》に急いだ。
着いたころには、
太陽の光が斜めになっていた。
丘には人麻呂の《ひんがしの・・》の歌碑があり、この歌が作られた毎年12月下旬に《かぎろい祭り》が開催されている。
丘の頂上は平らな地面が広がっており、
山の合間の平地で、東西に細長い《阿騎野(あきの)》が見える。
思っていたより狭かった。
この景色を見て、あの歌はここで作られたものではないという思いがした。
丘を下りて、バス停まで急ぐときに
畑の真ん中の道を走った。
そのとき、このようなところでこそ作られたという実感がした。
2枚の写真を並べるが、さて、皆さんはどう思われるだろうか。
かぎろいの丘から阿騎野を見る
阿騎野真ん中で西を眺める
ついでに言えば、あの歌は景色だけを読んだのだろうか。
人麻呂は、草壁皇子(持統天皇の子)とここを訪れたが、皇子は若くして亡くなった。
その後、後に文武天皇となる軽皇子(草壁皇子の子)とともにこの地を訪れたときに作られた。
当時、軽皇子は8歳だったという。
このような背景を見ると、東の空に見えたかぎろいは軽皇子の将来が明るくなってほしいという願いであり、西にかたぶいていた月は亡くなった草壁皇子の象徴として哀惜の情を込めた、そんな歌として作られたのではなかろうか。