今より若かりし頃の出来事ですが、労働審判の思い出があります。
上京したものの、なかなか職に与れず、派遣の仕事で食つないでいた時期がありました。
そこに東日本大震災で派遣切りに遭い、ハローワークで何とか見つけた会社が舞台です。
社長のほかには事務員が1人、私はそこで職業訓練の学校を立ち上げる仕事をしました。
職業訓練学校の新規参入は狭き門で、設立認可のために、様々な伝手を通じて働きかけを行うと同時に、毎晩遅くまで申請のための書類を作成しました。
無事に、認可が下りて、学校が立ち上がりました。
それは良かったのですが、学校が朝9時から夜は9時ごろまでやっていたので、講師も兼ねていた私は、仕事が深夜、休日に及びました。
結局、学校が立ち上がってから1年もしないぐらいに、退職に追い込まれました。
泣き寝入りの寸前だったのですが、テナントのオーナーや、学校の教師、生徒、友人が助けてくれて、労働審判を申し立てることになりました。
長い戦いでしたが、何とか会社と和解することができました。
労働弁護士として、頑張りたいと思います。
(弁護士 岡本英樹)