・・・臨死と死との遠い距離、そして立花隆の旧友との再会
今週の日曜日(26.9.14)の午後9時からNHKで臨死体験に関する番組があった。 臨死体験とは、死ぬ直前から生還した人の経験のことをいう。
私の親しい人が臨死体験をしている。
その人は、出産時に出血多量で死にかかったが、
そのときに次のような経験をしたという。
《私はきれいな道を歩いており、前には川がある。
まわりには白やピンクのきれいな花が咲いている。
道の両側からやさしい女性の手がいっぱい出ており、
「こっちにおいで、こっちにおいで」と優しい声で呼びかけている。
しんどいという気持ちは全くなく、むしろ気持ちがよいという感じである。
こんなに気持ちがいいのなら、声に従って行こうか・・》
というところで意識がなくなって、生還してきたという。
臨死と死とは全く異なる。
臨死体験とは死に近づいたということにすぎず、死とは全く別のものである。
例えれば、生と死との間には扉があり、死んだ人は扉の向こうに行って帰ってこず、ひん死であっても死ななかった人は死の扉を開けることなく戻ってきた、というのが正確な表現だろう。
扉の向こうに何があるか、扉を開けていない者(臨死体験者)にはしゃべる資格がない。
さて、番組の中でアメリカの優秀な外科医が臨死体験を次のように語っていた。
《私は臨死体験をしたことにより、あの世があることを確信しました、それは科学的に証明されました》と。
この外科医の話は集会で話されたものであるが、テレビ画面から伝わってくる集会の雰囲気は異様な感じであった。
《優秀な外科医という立派な人があの世があると言ってくれる》という期待に満ちていた。
この観衆たちは、本当にあの世があることに対して確信をしていないため、だれか立派な人が間違いなくありますという保証をしてくれることを待っているかのようだ
その医者は、自分の臨死のときに、自分の脳は全く活動していなかった、にもかかわらず、臨死体験をしたのだから、あの世はある・・・という。
それが科学的に証明されたという根拠のようだった。
これに対しては、そもそも脳が活動していないのなら、なぜ、その臨死体験を記憶しているのだろうか?という疑問がある。
臨死体験を記憶していること自体が、脳が活動していたという証拠ではないか。
参考までに言えば、この番組では、ネズミの実験で、心臓が止まり、脳に血流が行かなくなっても、数十秒間は微弱ではあるが脳波を出している(すなわち脳が活動している)ことが明らかになったことが報告されている。
疑問はもう一つある。
臨死の経験をした時期(瞬間)はいつかという問題である。
それは、先ほどの生と死との間に扉があるという例でいえば、死という扉の前に立った(死に一番近づいた)ときか、それと扉に行く(死に向かう)過程で経験したのか、それとも扉から立ち去る(死から生還する)ときに記憶したものであろうか。
臨死体験が死に一番近づいた時の体験であるということは何ら証明されてはいないのである。
臨死問題がNHKで扱われたのは2回目である。
普段は考えない、《死》という問題を考えさせてくれる、その意味では前回同様、心に残る番組であった。
しかし、前回の番組とは異なり、今回の番組で一番印象に残ったのは、次のような点である。
前回も作家の立花隆氏が出演していた。
前回の後、立花氏はガンの手術し、最近、転移・再発したことがわかったという。
74歳にもなり、いかにも歳をとったなぁという感じがする。
その立花氏が、番組の最後に、前回の取材時にインタビューした米国の学者と話をしている場面があった。
この学者とは前回の番組作成の過程で知り合い、親友になったという。
その学者は臨死体験をした後、あの世があるということを確信するようになったという。
立花氏はあの世には懐疑的である。
あの世があるかどうかは、科学的に証明できるような対象ではなく、その人の生き方や信念の問題であろう。
この人生の重大事に見解を異にする2人の老人が、それでも仲良く話をしあっている姿が映し出されていた。
近く臨死体験どころではない体験をするであろう2人が心から話を通じ合わせるという、その場面は何とも感動的な場面であった。
臨死問題とは別に、この場面のもっているほのぼのとした明るさがなにより、この番組が私の心に残してくれた深い印象であった。