手術後に突然、頭の中を万葉集が・・
約6年前にがんで胃を半分切除した。
術後、おどろくようなことが起こった。
手術から、3日ほどたった夜のことだ。
寝ようとして部屋の明かりを消した。
壁になにかが写っている。
よく見ると、いろんな動物がモザイクで壁に貼りついている。
象、キリン、ワニ、鹿。
窓の外を見たが、外からの光で写っているようではない。
そのうち、そのモザイクが動き出したのだ。
夢ではない、はっきりと眼が覚めていた。
ないものが見える幻視というものだろう。
同じ日であったかどうかははっきりとしないが、
寝ているような、起きているような、いわば《夢うつつ》という状態のときであった。
万葉集の中の和歌がぐるぐると廻りだした。
《青によし 奈良の都は咲く花の・・》
《東の野にかぎろいの立つ見えて・・》
《三輪山をしかも隠すか・・》
この3つが、順番に湧き出し、繰り返し、何度も頭の中をめぐるのである。
《なんと、素晴らしいのか!!》という大きな感動を伴って。
どこがどのように素晴らしいというような分析などは全くなく、ともかく《すごい》という怒涛のような感情の渦が頭の中を駆け巡った。
大学生のとき、体育の教官が、《昔、自分は精神がおかしくなった時期があった。そのとき、ゴッホの絵に感動し、本当に素晴らしいと思った!》と語っていたが、おそらく似たような経験であったろう。
このような異常な体験は1日だけで、その後は出なかった。
原因はわからない。
それまであった胃の一部を、手術で《無理やり》とってしまったことで、切除部分とつながっていた脳の神経細胞が、どこか違うところとつながったものなのかもしれないし、あるいは麻酔の悪影響がかなりの時間を経ても、なおかつ、脳に悪影響を与えたのかもしれない。
しかし、なぜ万葉集だったのだろうか。
それ以降、万葉集が頭の隅に住み着いたようである。
これまでに万葉集についての本を読んだり、旅行に行って風景を見たりした時にふと考えたことを、これから不定期に掲載していきたい。
甘樫の丘から見た明日香の風景。
右端の高い山が畝傍山、その左手の2つの峰が二上山である。
天神橋商店街の古書店で、再び《万葉の旅》に出会う
事務所の近くに、日本一長いと言われている天神橋商店街があり、その中の《天牛》という古本屋によく行く。
通りに面したところにワゴンがあり、文庫や新書が200冊、単行本が100冊くらい置かれている。
1冊が50円(単行本は100円。しかも税込み!)と格安だ。
ただ、煮出した紅茶にどっぷりと漬けて乾かしたように変色した文庫本もあり、印刷時期を見ると昭和25年などというものもある。
こんな本でも買うことがある。
既に販売が打ち切られ、現在では決して入手できないような貴重なものもあるからである。
欲しい本は、中古でもネットで簡単に買うこともできる時代だ。
本を買う目的がはっきりしており、あるいは書名がわかっている場合にはとても便利だ。
これに対して、ワゴンの中の文庫や新書は、まさに偶然の出会いだ。
品はない例えだが、男が女を探す場合を考えれば、ネットは目標の彼女が決まっているような場合であり、後者は街で行きかう女を物色するナンパの世界だろうか。
ワゴンでの出会いでは、そのときの気分次第で、今までは読みもしなかったような分野の本を手に取ることができる。
しかも、1冊50円だから、10冊買っても500円であり、仮にそのうちの1冊が読んで楽しくて心に残れば、他の9冊がおもしろくなくとも十分に元はとれることになる。
買った本の中には、《あー、そういう考え方があったのか》と全く知らない考え方や世界の見方を教えられ、感激することもある、わずか50円で。
少し前であったが、そのワゴンの中に万葉集の研究で有名な犬養孝先生の《万葉の旅(上)》を見つけた。
大学生のとき、先生の講義を受けたことがあった。
その際、文庫本で《万葉の旅》上中下の3巻を買ったが、今は手元にはない。
懐かしくもあり、その本を買った。
文庫本ではあるが、分厚く、ずっしりと重い。
万葉集の和歌とそれが作られた場所が、写真付きで、詳しく、まさにページが活字で埋め尽くされているような感じで、ぎっちりと述べられている。
(万葉については言いたいことがやまほどあるが、少ししか書けないという気持ちがページや行間から伝わってくるようである)
このぎっちり感、この重量、《そうだ、そうだ、こんな感じの本だった》という、昔の記憶がもどってきた。
その後、天牛のワゴンに万葉集の本が次々と並ぶようになり、結局、これまでに6冊を買った。
病院で夢うつつに頭に浮かびだした万葉集が、眼の前に具体的な本の形で現れたのである。
これも何かの縁というべきものだろう。
文庫本の《万葉の旅》について言えば、いまだに上巻しかない。
中、下巻は買わないかって?
もちろん、買います、いつか、ワゴンに50円で並んでいるのを見つけたときに。
しかし、その時がいつなのか、果たして本当に入手できるかどうか、極めて心もとないのではあるが。
行きつけの中古書店「天牛」
懐かしの文庫本。実に50年ぶりの再会である。
大学1年の時、犬養先生の万葉集講義を受けた。
普通なら、《万葉集は誰が編纂したのか》という前講釈から始まる。
しかし、違った。
冒頭は
《まだ上げ染めし 前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思いけり》
(島崎藤村の「初恋」)
の歌の紹介から始まった。
その歌を《みんなで歌いましょう》という。
その場にいた全員が合唱した、いや合唱させられた。
つい最近まで受験生であった我々にとっては、
万葉集の歌は合格のために記憶する古文にすぎなかった。
それにどのように親しみをもたせるか。
犬養先生は考え抜いたに違いない。
藤村の初恋のような純情で甘酸っぱい歌で酔わせて
学生を万葉の昔に導きいれようではないかと。
そして、その罠にまんまとはめられたのだ、この私は。
100円で「天牛」のワゴンで買った。
犬養先生は万葉の恋の歌が本当に好きなのだろう。
万葉集の最初の歌は初瀬の地から
昨日(2月6日)、平日に休みをとって、ハイキングに行ってきた。
行く先は初瀬(はつせ)である。
万葉集の冒頭は、雄略天皇の「籠(こも)よ み籠(こ)持ち・・・」(外部リンク:Wikipedia)で始まる。
その天皇の都、初瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)跡を歩いてみた。
近鉄の鶴橋駅発2時36分の特急に乗り、大和八木駅で降りた。
ホームの反対側に停車している電車を見て、少し驚いた。
今日の行き先である《大和朝倉駅》行だったからである。
小さな駅だろうと想像していたが、そこが終着の列車があるんだ。
2万5000分の1の地図には確かに駅の南方に小さい■が印刷されており、それが戸建て住宅を意味すること、そこに街が作られていることは知っていたが。
近鉄系列の不動産会社が宅地開発をし、そのためにここ止まりの電車を走らせるようになったのかもしれない。
電車は駅の1番線につき、そこのまま停車し、しばらくして折り返して大阪上本町駅に向かうことになる。
大和朝倉駅には3時12分についた。
駅を降りてすぐに観光案内所を探した。
周辺の地図をもらうためだが・・・
(以下、次回に)
鶴橋駅のホームに入ってくる特急
大和八木までは510円
待ち時間を加えると急行でもいいいが、ともかくゆっくりと座っていける。
大和朝倉駅
乗ってきた電車が見える。
乗ったときは《大和朝倉》行の準急であったが
大和八木からは各駅に停車していた。
万葉集は759年以後に大伴家持がまとめたものであり、それまでの約100年以上の歌がまとめられている。(※諸説あり)
その歌集の冒頭は、前回に述べたように雄略天皇の歌で始まっている。
この人は5世紀頃の人とされているから、実に300年近くも前の歌ということになる。
果たしてこの人がこの歌を作ったかは明らかではないらしく、又、当時は天皇などという呼び方はせず、大王(おおきみ)といったようだが、そのような細かいことはこの際も将来もこだわらないこととする。
さて、この歌の冒頭は次のようなものである。
籠(み)もよ み籠もち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ふくし)持ち
この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね
(以下、全文はリンク:Wikipedia )
高校時代、古文などには興味がなかったが、我流の解釈をつけると次のようになる。
《籠などを持って、丘で菜摘をしている娘よ、どこの家の子かな、名前を教えておくれよ》
この時代、家や名前を聞くと言うのは、妻にならないかということを意味したという。
となると、この歌は、さしずめ、大王のナンパ歌ということになろうか。
雄略大王が初瀬(伯瀬:はつせ)朝倉宮を営んだことはこの歌の前文にも書かれ、その宮殿跡らしき場所がこの駅の近くで発掘されているようだから、歌われている丘もこの初瀬の周辺にあるのではないか、その場所を探してみたい。
昨年から今年にかけて、明日香や桜井、耳成などを歩いたが、平地には家が建ち、道路ができ、電柱が張り巡らされ、万葉のおもかげなどはどこにもない。
ただ、一歩、山に入れば、地形は変わらず、木々や草も、昔から営々とその生命をつないできたに違いなく、万葉の時代からの変わらぬものがかけらぐらいはあるに違いない。
自分の足で歩きまわって(といっても自動車を運転しない私には、それ以外の方法はないのであるが)、あちらの道、こちらの道と分け入って、なにか面白いものがないものか、この目で探し出してみよう。
今回の目標は《天皇のナンパの丘》である。
そんな丘がどこにあるかなどは、はっきりとわからないであろうことは百も承知だ。
ただ、それらしい雰囲気のある場所があれば十分ではないか。
無くても、ないということがわかれば、それはそれで十分だ。
朝倉の駅を背にして、二本の足で探り出した、私のおもしろい、あるいは興味を持った風景の報告をしよう。
大和朝倉の駅を降りたところから北へ行く道
同駅から三輪山方面を眺めた景色
もう、かすかに春が
2月14日、午後3時過ぎに近鉄の大和朝倉駅についた。
先週は駅の北側の方に降りて三輪山の麓を歩いたが、今回は反対側の南に行くことにした。
駅前にロータリーがあり、そこの坂を上がっていくと住宅街に入った。
敷地面積も広く、しゃれた家も多い、高級住宅街である。
北側は古い町だったが、南には全く雰囲気が違う街の景色が広がっていた。
その街を抜けたところのある広い道路を下ったところに用水路がある。
そこから左に、方角で言うと南に行くのが忍坂の古道であり、近畿自然歩道に指定されている。
この日、最高気温は7度程度と低かった。
しかし、天気もよく、風も吹いておらず、歩いていて爽やかであった。
進行方向の左側は少しの畑があり、その向こうは山である。
大和富士とも朝倉富士とも言われている外鎌山(とがまやま)である。高さは300メートル未満の低い山である。ただ、この古道からは富士山のような形には見えない。
手前に畑があり、その奥に林が山頂方向まで続いている。
樹木は落葉樹、竹、針葉樹と、それらが斜めの帯状に積み重なり、更にその上にもう一つ、落葉樹の帯がある。
この季節、落葉樹はその名の如く、葉を落としており、空に向けてほうきのような枝を広げているだけだが、それでも、景色全体にかすかな華やぎのようなものがある。
立春は今月14日だった。
いつも立春と聞くと、《寒いのに何が春だ》と思っていた。
しかし、よくよく考えてみれば、立春は《春になった》というのではなく、《これから春だ、準備期間が始まるよ》ということだろう。
家でエアコンをつけ、炬燵で温まっているときにはわからないが、こうして外に出てみると、木々が春に向けて準備をしている気配がある。
外鎌山麓のこの景色、春にはどうなるか楽しみです。
行く手前の景色。こんな景色が好きである。
この道、なぜか懐かしいなぁ
忍坂と書いて、《おっさか》と読む。
私もそうだが、初めてこの地名を見て読める人はいないだろう。
奈良県桜井市の《記紀万葉の古道》がある(外部リンク:同市観光協会のHP)。
ここに来たのは、万葉の女性歌人であった鏡王女 (かがみのおおきみ)の墓を見たかったからだ。
私は、万葉歌人では額田王(ぬかたのおおきみ)と大津皇子が好きだが、その周辺にいた人たちにも興味がある。
鏡王女は、額田王の母とも、又、姉だったとも言われている。
この人は、歴史上で有名な大化の改新を成し遂げた藤原鎌足の正式な妻だったので、この忍坂の山にその墓が残っている。
今日の歩きの目的はそこを目指すことだ。
その墓へ行くのに、忍坂街道を歩いた。
古道と言っても、舗装もされており、ときたま車が通る。
しかし、人も少なく、ゆっくりと歩ける。
そいて何よりもなつかしい感じがする道だった。
昭和や大正、明治というような近い時代ではなく、もっとはるか遠くの時代のなつかしさ。
心の奥底にかすかに存在している、ある種のなつかしさを引き出してくれる道であった。
忍坂。遠くの山、左の石垣、樹木が古道の雰囲気を醸し出す。
古道といっても、家が古いわけでもないが、なぜか落ち着く。
神はどこにおわすのか?
忍坂の古道を10分ほど歩いた頃に左手に神社が見えた。
私の背より少し高い石垣があり、階段を上がったところが広場になっていた。
そこに多くの石灯籠があった。
広場の向こうに、更に石垣があり、その上に社殿(拝殿)があった。
神社の謂れを書いた立札には《忍坂坐生根(おつさかいますいくね)神社》と書いてあり、《当社は天平2年(730年)の大倭国正税帳に名前の見える古社》とあった。
ものすごく古くからある神社のようだ。
少彦名命(すくなひこなのみこと)などが祭られているという。
背後の《宮山》を神体としているので本殿はない、とも記載されている。
拝殿の脇から奥の方を覗くと縄が張られている場所があり、そこが神のおわす《磐坐(いわくら)》とされているようだ。
私には、普通の山の中のありふれた景色にしか見えなかった。
しかし、昼に灯したろうそくが見えないように、夜や霧の出る日など条件がそろえば、人に何かを感じさせるような場所なのであろうか。
あるいは敏感な人であれば、昼でも《霊力》なるものを感じるのであろうか。
神社の説明立札
拝殿。なかなか迫力がある。
拝殿の奥を撮影。右下に縄が張られている。ここが神座だろうか。
坂の道は神が通るみちかも
《忍坂坐生根(おつさかいますいくね)神社》には、その広場に上がる階段が2つある。
南には、普通の人が4~5人、並んで行き来できる広さがある。
それとは別に、北に細い階段がある。
大人がすれ違うことはむずかしく、傾斜も急である。
しかも、その最上段には、上から縄が垂れ下がっている。
ここは通ってはいけないという意味なのかもしれない。
神主だけが上れるのか、あるいは何らかの祭りのときにだけに使用するのかもしれない。
ひょっとすると、ここに祭られている神々だけがとおる階段なのかもしれない。
もし、そうだとすると、個々の神々は階段を歩いて降りてくるのであろうか?
神と言えば、魂か霊であろうから、空中を飛んでいくというイメージがある。
しかし、この古い神社では、神々が次々と階段を踏みしめて下りて、古道に面したそれぞれの家々の祭壇を訪れていたのではないか、などと勝手に想像するのも楽しい。
太古の時代、神はもっと人間臭く、人と同じ形や行動をし、人々の生活の身近にあったのではなかろうか。
今も神を信じる人の心の中では、忍坂の道は神が通る道であり続けているのかもしれない。
①
忍坂古道から上る階段。狭く、急である。
②
①の写真を上るとこの広場に出る。石灯篭がずらっと並んでいる。
川の流れは右に左に
忍坂の古道を15分くらいも歩いただろうか。
舒明天皇御陵道と書いた石標があった。
《是ヨリ左へ1丁》と書かれている。
道標のとおり、左に入っていく。
鏡王女の墓は、この天皇陵の更に上の方にある。
車1台が通れるほどの上がりの坂道が続いている。
道の左側は溝で、きれいな水が流れていた。
歩いて行くと、その流れが右側に変わった。
道路の下をくぐっているのだ。
その交差部分は、道路が左に曲がり、水路は右に曲がってX型で交差している。
そのような交差を3度も繰り返した。
水路は右に行き、左に戻り、最後には右に戻ったということだ。
道に面した家は、石垣に白い壁があったり、土蔵風で下は板張り、上が白い壁であったりで、見ていて楽しい。
道はくねって、少しばかりの上がり坂で山の方へ伸びている。
冬のことで、寒いが天気は良く、気分爽快である。
忍古道会から舒明天皇陵へ入る道
水路が道の下を潜って、右側になった
石垣に白い壁、しっとりと落ち着いた家が続く
舒明天皇陵へ行く途中、神社の社のミニチュア版があった。
大きさは40センチぐらいだろうか。
どこでもあるような山の端の崖が崩れているところにポツンと置かれている。
小さいけれども、ちゃんと木の柱があり、屋根は銅板葺きである。
ただ、コンクリートのブロックの上に鎮座している。
写真を撮っていると、この社の向いの家に自動車が止まった。
出てきた年配の人に聞いてみた。
《これは何をお祭りしているんですか?》
その人は《ヤマノカミ》と言った。
きっとそのとき、きっと、私が《エ?》という顔をしたのだろう。
《山には神さんがいて、毎日拝んでいる》と言った。
至極、当然な話というような言い方であった。
これが山の神を祭っているとは、思いもしなかった。
ちゃんと神社の社の形をしている
舒明天皇陵を過ぎると後は人家がない。
小川に沿って坂を8分ほど上っていく。
なぜかホンダのカブ(原付)が置かれていた。
その上方に鏡王女の墓があった。
小さな石垣だけの小さくかつ質素な墓であった。
墓の隣に小さな畑があり、男性が農作業をしていた。
カブはその人が乗ってきたのだろう。
墓には樹木が元気に茂っていた。
犬養先生の「万葉の旅」では数本の松が植えられているとあった。
今、生えているのはスギやヒノキである。
「万葉の旅」の発行から約50年。
その間、松は枯れ、スギなどに植え替えられたようだ。
それにしても、木はこんなにも早く大きくなるものか。
そして、月日の経つのがこんなにも早いものか。
墓の門 右にある石碑に鏡王女の墓とある
鏡王女の墓の全景 木が茂り、堂々とした感じである
が、たかが50年でこのようになるのか・・
実は、鏡王女の墓に行ったのは、《茜さす 紫の行き 標野行き・・》で有名な額田王(万葉集の№1の女性歌人である)に導かれてである。
本を読んでいると、額田王の母は鏡王女と書いてあるものがあり、また、他の本では姉妹だとも書いてもある。
墓の前にあった案内板には「万葉歌人として有名な額田王の姉にあたるとされ」と記載されている。
学者などは文献をいじくりまわして、甲論乙駁、牽強付会、自分に都合の悪い部分は軽く扱い、有利な部分を固執して論文をまとめる。
まるで弁護士が裁判所への提出書面を書くように自説を主張していると同じではないか。
万葉集に二人の歌が相次いで載せられている。
「君待つと わが恋ひ居れば わが屋戸(やど)の すだれ動かし 秋の風吹く」
(額田王:巻4の488。私訳:恋しいと待っているのにあなたは来ない。すだれが動いたのであなたかと思ったら秋の風だった。もう、そんな季節になったのね。)
それにしてもこの歌、千数百年も前に作られたのに、分かりやすいく、詠った気持ちもよくわかる、すばらしい。
この歌についで
「風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ」
(鏡王女:巻4の489。私訳:すだれを動かしたのが風であっても私は羨ましい。あなたは来てくれるかもしれない人がいるのに、風だったなんて不満を言ってはいけないわよ。私にはいないもの・・)
こんな歌を交わすことができるのは、二人がものすごく親しい関係だったのだろう。
来ぬ人を待つ気持ちを歌い上げる額田王、それをうらやましいなぁとウィットを込めて茶化してみせる鏡王女。
ものすごく親しい女友達、おそらく姉妹と言っても間違いないだろう。
そして、たしなめている鏡王女の方が年上のように思われる。
さて、鏡王女の墓はここにあるが、額田王の墓はどこにあるのだろうか?
こんなに仲が良ければ、死んでも近くにいたいという気持ちもあったのではないか。
鏡王女の墓に来る手前に、一か所、こんもりとした木立があった。
所詮は、その木々も、最近、せいぜい100年以内に生えたものではあろうが、それでも周囲の土地と区別した形で木々が生えている。
私は勝手に妄想する、《ひょっとするとこれは額田王の墓かもしれない》
もちろん、誰一人もそんなことは言っていないけれども。
鏡王女の説明板。ここに姉妹と書かれている。
鏡王女の墓の手前にある木立
これが額田王の墓だという人などはいないのではあるが・・
舒明天皇の墓より上に、鏡王女の墓があるが、その横に大伴皇女の墓への案内板があった。
《この先 約120m上にあります》と記載されていた。
私は、万葉集の初心者であり、大伴皇女がどのような人物か、また、どのような歌を詠んだかも知らない。
ただ、せっかく来たのだからと山の斜面を上って行った。
なぜ、このような高みに墓を作ったのだろうかと考えながら。
しばらく歩いて、階段を上がったところに墓があった。
鉄の門があり、鳥居があるだけの簡素なものであった。
太陽が沈みかけてきたので、墓の写真を1枚だけ撮って、階段を下りて行こうとした。
その時、はるか西の方に、小さくではあるが、二上山が見え、その左に葛城の山並みも見えた。
舒明天皇よりも、鏡王女より高みに作られたのは、これらの山並みと関係があるのだろうか。大伴皇女が二上山や葛城の山とどのような関わり合いを持っているのか、今はわからない。
私の心の中にこの皇女と2つの山がしっかりと腰を据えたことは間違いない。
将来、彼女の歌を見たとき、その関係がわかるかもしれないし、わからないかもしれない。それでも、いつか解決するかもしれない疑問を蓄えこむ、それは楽しいことだ。
夕暮れの大伴皇女の墓
細長く伸びた枠の先に階段があり
底を上がれば墓に行きつく。
階段をおりるとき見えた二上山、葛城山
はるか遠く、中央にあるはるか遠くの二上山、
その左手が葛城の山並み
大伴皇女の墓を後にし、鏡王女の墓も下っていくと、忍坂古道に流れ行く小川がある。
小川には沢山の岩が転がっているが、少し大きめのがある。
坂を上がっているときには気づかなかったが、他の岩とは色が違い、やや薄茶色である。
石には興味があるので、この岩、なぜ色が違うのかと不思議に思って、注目したときに気づいた。
岩の表面が長方形に削られ、そこに字が刻まれているのだ。
右下の字は「鏡王女」とある。
続いて3行は「秋山之 樹下蔭 逝水乃」とあり、《あきやまの このしたかげ ゆくみずの》と読むのだろうか、和歌が刻まれている。
川の中にこのような碑があるのには全く気付かなかった。
その後の文字は「吾許曽・・・」とある。
《われこそ》だろうが、その後は読めなかったが、和歌の後半が続いている(※注1)。
末尾に「孝書」とあるので、おそらく犬養孝先生の書のようだが、付近には何の説明板もない(※注2)。
川の中にポツンと置かれている。
気づくならそれでいい、気づかないならそれはそれでいい、ともいうようなふうに。
岩自体は川に転がっている他のものと同じ種類のもののようだ。
近くに寄って見たのではないからはっきりしないが、色が違うのは苔か地衣類のせいだろう。
この岩、和歌を刻むために一旦は川から引き上げられたのではあろうが、再び、小川の中に持ち戻されたのであろう。
注意して見ないと、山から転げ落ちた岩があるな、としか見えない。
この岩の位置やさりげない置き方も、犬養先生がきっと指示されたものであろう。
※注1 本を見ると、全文は次のとおりのようだ。
秋山の木の下隠(かく)り 行く水の 我こそ 益(ま)さめ 思ほすよりは
※注2 実は、この記事を書いた後に、再度、現地を訪問したところ、説明版を発見した。この点は、今後、別途、《再び、忍坂を訪れる》というシリーズで述べてみたい。
小川の中にある歌碑。
山から転がり落ちた岩という感じだ。
犬養先生って、こんな字を書くんだ。
知らない所に行くとき、ともかく歩きまわる。
狭い範囲内しか動きまわれないが、小回りが利く。
面白そうな脇道があれば必ず入る、寄り道をする。
ときに思わぬ発見をすることもある。
で、《じんご石》というものを発見した。
大伴皇女らの墓を見た後、行きとは違う道を歩いた。
その途中、道路に大きな石が置かれていた。
周囲には岩は全くなく、この岩が孤立して存在している。
高さは2.5メートくらいで縦に長い。
背後に2歩の木の柱が空に向かって突き出ている。
その頂点を横木でつないで、そこに鐘が吊り下げられている。
神武天皇が八十建(やそたける)を征伐するときにこの岩に身を隠したとか、舒明天皇と関係があるとか言われているようだ。
参考までに言えば、古事記や日本書紀の双方に、神武天皇が八十建を攻め滅ぼしたという話があり、その段で忍坂の名が出てくるし、書紀には忍坂の記載のほぼ同じ個所に《大石》、《大きなる石》という記載もある。
これらを結びつけると、《忍坂の大きなる石》があった、それがこの《じんご石》となったのであろう。
《じんごいし》は、漢字では《神籠石》である。
先ほどの話にちなんで、《神》武天皇が《籠》った石ということなのか、あるいは霊力があるため、神が籠っている石とされていたことから名づけられたのか。
それにしても、神武や舒明などという天皇などの名前が、ひょいと簡単に出てくる、そんな土地柄というのがすごい。
神籠石の夕景
吊り下げられているのは
火事などの時に危険を知らせる警鐘だろうか。
神籠石の説明看板
じんご石の後は石位寺(いしいでら)に寄った。
重要文化財の石造薬師三尊があるが、予約必要なため、見ることができなかった。
寺の階段を下りるとき、もう太陽は沈んでいた。
帰りは行きと同じ道を歩いて戻った。
忍坂坐生根神社(リンク)近くに来たとき、うすぼんやりとした光が見えた。
よく見ると、神社の境内の石灯篭にろうそくが灯されていた。
階段を上がった広場の24基の灯篭の全部にである。
境内に人の姿はなく、とりわけ祭り事があるようでもない。
その日は平日(水曜)だったから、おそらく毎日、そして、神主もいないようなので、地域の人が灯しているのだろう。
石灯篭に火を灯すのであるから、万葉や記紀の時代からではなく、鎌倉や室町、江戸時代などから始まったものかもしれない。
神輿を担ぐでもなく、又、神楽というような観光に役立つものではなく、ただろうそくに火をつけるという日常的な行為にすぎないけれども、それが毎日行われているということが、私にとってはよりすごいことのように思われる。
このような営みが続けられている、その場面を見ることができただけでも、ここ忍坂に来た値打ちはあった。
忍坂には心をかすかに揺さぶる何かがある。
毎日ともされる
うす暗闇に灯るろうそくの炎に感じるやすらぎ。
消えそうなろうそく
風に吹かれて今にも消えそうだけども。
春だが、まだ冷たい風の中、青空を背景に梅はキリリと咲く ~再度忍坂を歩く(2019.3.13)
忍坂の道を、鏡王女の墓の方に行かずに、直進する。
町並みの途絶えたところで、畑や山が見えてきた。
前方には小さな山が何段にも折り重なり、その背後に高い山がそびえている。
この日は風が少し強かった。
風を遮る家がなくなると、かなり寒い。
薄いコートを持ってきて良かった。
自動車の頻繁に往来する道路(国道166号線)を渡り、5分ほど、この道路沿いに南に歩いた。
道路脇の畑に紅梅があった。
青空を背景にしてキリリと咲いていた。
寒い風の中で細い枝についた花が咲いている。
頑張っているなとほめてあげたいぐらいだ。
忍坂古道を歩き、国道を横切ると右下に川が見える。
これは粟原(おおはら)川でそこを上流に向かって歩く。
右手側には、川を挟んで畑が広がり、その向こうに小さな山が幾重にも重なって見える。
後方はるかには、高い山並みが連なる。
この景色を見ていると心の中から浮かんできたものがある。
《倭(やまと)は国のまほろば たたなづく 青垣
山隠(こも)れる 倭し 美(うるわ)し》
(訳注:やまとは国の中でいちばん良いところである。幾重にもかさなりあった青い垣根のような山々に囲まれたやまとは、ほんとうにうるわしいところである。)
古事記によれば、倭建命(やまとたけるのみこと)が戦さで傷つき、
その命が尽きようとするとき、故郷を想って詠ったものだという。
古人は、この目の前のような風景を思ってこの歌を作り出したのではないか。
それから千数百年を経過した現在、広がる畑、それを潤す川、森、山々を見て、私の心にこの和歌の記憶が呼び起されてくる。
和歌を作った人の思いとそれを今、思い出している私との間には、この景色を媒介として共通する感情が存在するかのようである。
もちろん、私の感情は、この歌の作者の全身からあふれ出すような望郷の思いからみて、はるかに及ばないものではあるけれども。
誠に、目の前に展開するこのパノラマは《倭し 美し》というべきものにピッタリである。
何事につけても《絶景》と言いたがる最近の風潮。
しかし、このような風景こそ心に深く食い入るのではないか。
粟田川沿いに上流へ30分ほど歩いただろうか。
《粟原寺(おおはらじ)跡》の看板があり、そこで川から離れて坂を上がって行く。
途中に《忍坂伝承地道》との細長い石標があった。
行きついた寺跡には、昔には三重塔と金堂などがあったという。
今はこれらの礎石であろうか、土に埋もれた大きな岩が20数個あるのみだ。
うちの一つは割れてはいるが丸い円形のくぼみがあり、これが三重塔の心柱を支えた岩かもしれない。
この三重塔の伏鉢(リンク:談山神社:文化財・社宝について)が現存しており、藤原鎌足を祭っている談山神社(リンク:談山神社について)に置かれている。
国宝となっているようだが、この寺の建立のいきさつが次のように刻まれているという。
《中臣大島が草壁皇子のため発願し、比売朝臣額田(ひめあそんぬかた)が持統天皇8年(694年)から造営を始め、和銅8年(715年)に完成した》
この《比売朝臣額田》が額田王だと云われている。
持統天皇は天武天皇の妃である。
額田王は、天武天皇と同時代の人物であり、同天皇が即位する前の大海人皇子(おおあまのおうじ)と言われていた時代に同皇子の子を産んでいる。
草壁皇子は持統天皇の子であったが、若くして死亡した。
その冥福を祈るためにこの寺が建てられ、額田王がその造営の責任者であったということなのだろうか。
天武天皇の生まれたのは631年頃らしいというが、仮に額田王が10歳の年下だとすると、造営を始めた頃には彼女は50歳を超えており、完成の頃は実に70歳を超えていたことになる。
造営の責任者ではあっても、果たして現地にどれほど来たであろうか。
ましてやここで死んだなどということがあったであろうか。
《ここが額田王の終焉の地》という伝承もあるようだが、現地に建てられた説明板には、これは《史的考証》ではなく、《詩的確信》であると書かれていた。
なるほど、うまく言ったものだ。
この樹木に囲まれた狭くて陰気な場所が、あの初々しくて弾むような心を詠った女性の最後の地であったとは。
《詩的》表現をすれば、それが真実かどうかは、現在に永らえた礎石だけが知っているということになるであろうか。
粟原寺跡の状況
三重塔の心柱の礎石と思われる岩
額田王の終焉の地と云われることもある粟原寺跡を後にして、行きとは違う道で坂を下りだしたときだ。
寺跡の直ぐ下に神社があり、その下には道に沿って民家がある。
民家の前には小川が流れている。
その小川の中にある岩の上にピンク色の花が咲いていた。
よく見ると桜草だ。
流れの真ん中にポツンと一輪。
雨が降るときには流れが激しいだろうに。
流されもせず、なぜ、こんなところに、
額田王に捧げる一輪の花であろうか。
少しわかりにくいかもしれないが、
写真の中央やや右下のピンクの岩
その真ん中にポツンと一輪。
どう見ても桜草のように見える。
額田王に捧げる花であろうか。
毎年、この時期に咲くのであろうか。
粟原寺跡から忍坂の町並みに来たときにはもう太陽が沈みかかっていた。
大伴皇女の墓に寄っていこうか、どうしようかと迷った。
が、《やはり行こう》と思った。
夕暮れの二上山がどのように見えるか知りたかったから。
坂道と墓前の階段を駆け上り、上にたどり着いた時には、まだ、太陽は沈み切ってはいなかった。
墓を背にして、階段に腰かけて西の空を見た。
夕暮れの空に遠く、二条山の雄岳と雌岳が黒々と見えている。
ここから見ると山容はややいびつである。
15分ほど、見つめていただろうか。
風が強くなり、木々がこすれ合って、まるで悲鳴をあげているかのようだ。
もう日が沈む。
寒くもなってきた。
暗くなる前に山を下りよう。
真ん中の上側の2つのこぶの山が二上山。
右が雄岳、左のやや低いのが雌岳。
沈みかかっている夕陽が写真の真ん中の樹木群だけを照らしている。
太陽は沈み
夕暮れの山の上に小さい雲が2つ。
以前、鏡王女の歌碑の話をし、その説明板がなかったと書いた(リンク:小川の中の岩に何か刻まれているものは・・)。
今回、大伴皇女の墓から降りてきたときに説明板を発見した。
歌の石碑のある小川の下流の約15メートル離れたところにあった。
急いでいたので気付かなかった。
うす暗い林の中、道の脇にひっそりと設置されていた。
その説明によると、歌碑はやはり犬養孝先生が書かれたという。
設置場所も犬養先生が決めたのかもと書いたが、これは違った。
ここ忍坂の区長であった杉本さんという方が、わざわざ小川の中に作られたようだ。
説明板によると《数多くある万葉の歌碑の中で、これほど歌碑と歌詞がぴったりと合っているのはないと云われている》という。
歌碑や説明版の場所、きっと犬養先生がみてもやはりこれでよいと言われるに違いない。
犬養先生と同じように、杉本さんという方も万葉集に親しみ、加えてこの地を心から愛しておられたのであろう。
説明板は薄暗い林の中に放置されている。
写真の上部の黒い木の下の小川の中に碑があるが、わかるだろうか?
歌碑の説明板。
暗いところで撮影した。
小さな文字だが興味ある方は拡大して読まれたい。
日も沈みつつあったので、大伴皇女の墓を急いで下りてきた。
後は大和朝倉駅に向かうのだが、最後に楽しみにしていたものがある。
忍坂坐生根(おつさかいますいくね)神社の灯篭の灯を見ることだ(リンク:坂の道は神が通るみちかも)。
しかし、神社に行くと、一つも火が灯されていなかった。
灯篭のある広場に上がって確かめた。
山側の右から4つくらいはろうそくがあったが火は消えていた。
それ以外の灯篭にはろうそくさえたてられていなかった。
灯篭を順番に拝んでいる中年の女性がいた。
《ここの灯篭、毎日、灯をつけられるんですか》と話かけた。
《そうです、今日は私の当番です。風が強くて・・》という答えが返ってきた。
ついでに聞いてみた。
《ここの狭い階段は神さんの通る道ですか?》
《そうらしいです。傾斜もきついでしょう》
通りすがりの私にとっては灯篭の灯は単なる珍しい風景でしかない。
しかし、地区の人にとっては、それは信仰であり、長らく続いてきた伝統でもある。
ただ、《山の神》の社殿の時に聞いた人は《山の神》がいると断言していた(リンク:この社に《ヤマノカミ》神がいる、そんな忍坂)が、ここの女性は《・・らしいです》という。
二人の間に微妙な信仰の揺らぎがあるように思われた。
ろうそくに火をともすのが、信仰から、単なる伝統や習慣に変わりつつあるのかもしれない。
伝統がいつのまにか、電灯(LEDで自動点灯)にならないように祈りたい。
写真の中央右上の2つの灯篭にも風除けの紙がはられていた。
しかし、風が強いとろうそくはすべて消えるようだ。
神が通るための専用の階段
橋が架かっているが、狭く傾斜もきつい