三差路の道標から北に15分くらい歩いたところに歌碑があった。
人より少し大きな御影石に《有馬皇子結松 歌碑》と彫られていた。
その前の道路は車の通行が多く、横断するのは気を使った。
昔の道が、今はこの往来の激しい道路になっているのだろうか。
有馬皇子の歌の一つは次のようなものである。
「磐代の 浜松が枝を 引き結び
真幸くあらば また還り見む」
もし、無事に戻れるならばと・・あるが、
当然、そうでないかもしれないという気持ちも持っている。
枝ではなく、こよりなどを結わえたかもしれない。
皇子は結局、藤代(ふじしろ)で処刑された。
そこは岩代より和歌山側なので、
皇子はこの松の前をもう一度、通っていったはずだ。
しかし、死罪を言い渡された身では
松があっても、眼にも入らなかったであろう。
記念碑の横にある松は痩せてひょろっとしており、
ここ十年以上も前に植えたものではない。
皇子の頃の松が、今もあるとすれば、
堂々たる大木になっているだろう。
死亡のとき、19歳だったとすれば、
現在のこの細い頼りなげな松の方が
あるいは似つかわしいのかもしれない。