知恩院に行けなかった明智光秀の首
平安神宮から白川の流れに三条通りを
更に下流に5分位歩いたところに「明智光秀の塚」がある。
秀吉との天王山での戦いに敗れた光秀は
京都伏見の小栗須で竹やりで刺されて死んだといわれている。
なぜ、その首がこんなところに?
道と反対側がかなり急な斜面で
光秀の塚の説明いたには次のように書かれていた。
家来が首を知恩院に持って行こうとした。
しかし、夜が明けたので、そこに首を埋めたという。
そこから知恩院までは徒歩約5分であり、それほど遠い距離ではない。
知恩院が信長殺しで、敗残の光秀の首を受け取って埋葬するとは思えない。
塚は、今は両側に家が建ち並んだ行き止まりの路地にある。
しかし、今から約500年前なら家も建っておらず、
そこからは知恩院も見えたであろう。
家来としては知恩院に埋葬できなくとも
せめて同寺の鐘の聞こえる場所に埋めたかったのではなかろうか。
塚は小さなもので、手前に石造りの多重の塔がある。
塔の前に花が植えられていたが、それは桔梗であった。