【1300円は高いかもしれないが・・】
疏水に沿って、哲学の道を下っていくと銀閣寺道と交わる。
ここが哲学の道の下流側の終着である。
この道を右に曲がって歩けば銀閣寺門前に至る。
逆に左の出町柳方面に3分ほど歩くと日本画家橋本関雪の記念館がある。
《白沙村荘》という。
そこでもらったパンフレットには「日本画家が、東山の麓に描き出した文人の理想郷」と記載されている。
ここに何があると言えば、木々と草、池などで構成された落ち着いた空間がある。
入園料は1300円、ちょっと遠慮したくなるような値段でもある。
しかし、敷地1万㎡(3000坪)あり、建物も多いので、維持していくのは大変だろう。
高いと思えば高いが、池に面した部屋に座り、吹きぬけていく風を感じる、その価値をどれくらいとみるかで考え方も変わってくる。
さっさと歩いて、流れ作業で見て廻り、《はい、終わり》なら高い。
そうではなく、時間をかけて味わうというのであれば、少なくとも時間当たりの単価はそれほど高くはならないだろう。
如舫亭から池の蓮を見る
【蓮は天国ではなく、極楽の花】
白沙山荘に行ったのは8月16日の大文字送り火のあった翌日である。
池には蓮の花が5~6輪、咲いていた。
同行した友人が咲いている蓮をみて感激したのだろう、《きれい、天国みたい》と言う。
思わず、《天国と違う、極楽やろう》と言ってしまった。
濁った池から出ている大きな葉っぱ、その上の丸まった水滴、白い花弁に薄いピンクが指した花、これはおそらく仏教の世界である。
参考までに言えば、奈良、東大寺の大仏は蓮の花弁の上に座っている。
友人はクリスチャンである。
ユダヤやエルサレム、ヴァチカンにはこんな花はないであろう。
大きな葉、白色にうっすらとピンクが入った蓮の花
【カワセミが飛んでいる】
池に面した「存古楼」に座って、ゆっくりとしゃべりながら池を見ていた。
そのとき、池の反対の岸を左から右に、青色の何かがよぎった。
直線的な動きだ。
《まさか、カワセミ、まさか》
又、動いて、今度は蓮の池の方に飛んだ。
その時の写真が下である。
カワセミが蓮にとまっている《極楽の風景》
中央にカワセミが写っているのがおわかりだろうか。
山中の渓流にいる鳥というイメージがあるが、
まさか、こんなところにいるなんて思いもしなかった。
以前にここに来た時には見かけなかったのに。
この園内には関雪の絵画も展示されている。
その中にカワセミの絵の軸があった。
関雪の描いたカワセミ(背景は清流のようである)
そうするとあのカワセミの先祖は関雪の時代にもいたのであろうか。
なにせ、ここは1000年の都で伝統を重んじるところである。
このカワセミも代々にわたって、この伝統の地を守ってきたのであろうか。
【時間が流れていく】
前回(去年10月)ここに来た時には、「存古楼」で謡曲の会合が開かれており、いかにも京都らしいという感じがした。
存古楼の内部にはただただ、広い板敷の空間が広がっている
(なお、今回の冒頭の写真の建物がその外観である)
この建物の池側(写真で言えば左端の窓側)に座って、池を見つめていた。
床が板敷の百畳以上もありそうな広い部屋である。
涼やかとは到底いえないが、それでも背中の方から、ゆったりとした風が吹いていた。
30~40分は座っていただろうか。
話もするし、沈黙もありで、時間がゆっくりと流れていく。
そんな豊かな空間での、そして優雅な時間でもあった。
【一群の《草》が印象的であった】
蓮もあり、カワセミも見たが、一番印象的であったのは《草》であった。
目の前の池の左端に、20数本ほどの草が群植されていた。
すんなりと背が高く、人の首あたりくらいまでの高さがある。
庭は丁寧に手入れされているので、この草も意図して植えられ、今まで維持されてきたのだろう。
おそらく花といっても、稲の花のようにほとんど目立たないようなものだろう。
もし、自宅の庭に生えていたら、すぐに抜いてしまうようなものだ。
芙蓉池の北西岸に一箇所に固めて植えられている草
しかし、この庭では、池と見事に調和して、蓮以上の存在感があった。
(上の写真はアップしすぎているので、草の全体像が見えない。
もう少し、広角にした方がスッキリとした立ち姿と池の雰囲気との調和がわかりやすかっただろう。)
蓮とこの草とどちらを持ち帰るかと聞かれれば、それはもちろん蓮である。
しかし、そんな草でも、その植えられている位置や周囲の池との調和が良ければ、《いいなぁ・・》と印象に残ってしまう。
橋本関雪は1913年から45年までの間、この庭園の造営を行ったという。
この草も彼の美意識により、選びだされてその位置に植えられ、今日まで引き続き維持されてきたのであろう。
花も目立たないような草を見事に主役の一員として位置づけ、その個性を生かしている、ここに関雪の芸術家としてのセンスが見られるということだろう。
(弁護士 大澤龍司)