日も沈みつつあったので、大伴皇女の墓を急いで下りてきた。
後は大和朝倉駅に向かうのだが、最後に楽しみにしていたものがある。
忍坂坐生根(おつさかいますいくね)神社の灯篭の灯を見ることだ(リンク:坂の道は神が通るみちかも)。
しかし、神社に行くと、一つも火が灯されていなかった。
灯篭のある広場に上がって確かめた。
山側の右から4つくらいはろうそくがあったが火は消えていた。
それ以外の灯篭にはろうそくさえたてられていなかった。
灯篭を順番に拝んでいる中年の女性がいた。
《ここの灯篭、毎日、灯をつけられるんですか》と話かけた。
《そうです、今日は私の当番です。風が強くて・・》という答えが返ってきた。
ついでに聞いてみた。
《ここの狭い階段は神さんの通る道ですか?》
《そうらしいです。傾斜もきついでしょう》
通りすがりの私にとっては灯篭の灯は単なる珍しい風景でしかない。
しかし、地区の人にとっては、それは信仰であり、長らく続いてきた伝統でもある。
ただ、《山の神》の社殿の時に聞いた人は《山の神》がいると断言していた(リンク:この社に《ヤマノカミ》神がいる、そんな忍坂)が、ここの女性は《・・らしいです》という。
二人の間に微妙な信仰の揺らぎがあるように思われた。
ろうそくに火をともすのが、信仰から、単なる伝統や習慣に変わりつつあるのかもしれない。
伝統がいつのまにか、電灯(LEDで自動点灯)にならないように祈りたい。
写真の中央右上の2つの灯篭にも風除けの紙がはられていた。
しかし、風が強いとろうそくはすべて消えるようだ。
神が通るための専用の階段
橋が架かっているが、狭く傾斜もきつい