ロッジを《小坊主》の方に5分ほど上がっていくと、少し大きめ、といっても周囲は150mほどの池がある。
原池といい、自然の池ではなく、人工のものだという。
この付近では砂鉄があり、日本古来の《たたら》製法で鉄を作っていたという。
原料の砂鉄は流水で集めたようで、この池を掘ってその水を貯めていたらしい。
原池、後ろは吾妻山
その岸辺には、まっすぐ上に伸びた茎の上に紫の花が4輪ほど咲いていた。
《カキツバタです》とロッジの人は言っていた。
この池には水蓮もあったが、夕方なのでつぼみは閉じており、花は咲いていなかった。
翌朝に見たときには、ピンクと白の花が咲いていた。
花までの距離が遠いせいか、あるいは光線がフラットなせいか、花は意外に単調な感じで、きれいとは思わなかった。
むしろ、水面に浮かんでいる葉の方が、綠色のもあれば、薄茶色、紫、さらには光を反射して白いものまで、色のバリエーションを見せてくれ、太陽の光の強弱や風に動かされて、水面でざわめき変化していておもしろい。
夕方になると水蓮はつぼみを閉じている
水蓮と言えば、印象派の画家モネはジヴェルニーの自宅に池を作り、そこに植えていた睡蓮を死ぬまで描き続けという。
彼の絵は、花にせよ、葉にせよ、その瞬間ごと強弱のある光線によりさまざまに移りゆくさまと、風に吹かれた水面のざわめきが作り出す色までが画面に描きだされている。
撮影した原池の水蓮の写真を見ながら考えた。
(比較すること自体が間違いだといわれることは承知で言うが)、私の写真はなんとも薄べったい、モネの絵はものすごく分厚い。
もちろん写真には写真の良さがあるが、どんな有名な写真家の写真を見ても、天才画家の絵と比べると薄べったい。
葉が緑一色ではないことがわかる。
モネはもともと、自然には決まった色はないといっていたそうだ。
アメリカの画家ワイエスの作品に、道に落ちている松ぼっくりを描いたものがある。
どこでも見かけるような素材を対象にしているにもかかわらず、なんとも言えない重厚感があり、しかも何かを訴えかけてくる。
被写体とカメラという物理的なメカニズムで構成される写真とは異なり、絵は画家が感受した色彩をその脳(心という方が正確かもしれない)にため込んで、時間をかけて自らの腕で描きだす。
眼から入った色彩はそのまま画面になるのではなく、その画家の奥深いところをくぐって、その人の独自のものとして熟成されて表現されるのであり、そこが写真にはない独自のものを生み出すということであろうか。
陽の光の具合で水蓮の葉は鈍い銀白色になる