宿の玄関を出たところに一本の木がある。
幹は太く、両手で抱えても、なお、少し余りがある。
根元にやや黄色く色づいた落ち葉があった。
葉はモミジのより大きく、5裂した葉も太い。
楓(ふう)という木で、シンボルツリーのようだ。
その木で思い出すことがある。
昔、大阪城での話だ。
前方には20段くらいのかなりの高さの階段があった。
その手前に5本ほどの楓が生えている。
周囲はうっそうとして薄暗い。
秋、もう一度ここに来たいと思った。
楓の黄葉を見たかったからだ。
その後、かなりの期間が経過した。
仕事が早く終わったので、晩秋の大阪城に行った。
どこを探してもそのような景色がない。
5本の楓の木もなく、そのような階段もない。
念のために大阪城を一周した。
太陽が沈んで、冷たい風に吹かれて駅まで歩いた。
あの5本の楓は夢であったのか。
《胡蝶の夢》という話がある。
中国の思想家荘子が残した話だ。
夢で蝶(胡蝶)になって飛んでいる夢を見た。
あまりに真に迫った夢だった。
夢から覚めたとき、いま目が覚めているこのときが現実か。
あるいは、夢の方が現実なのか。
この胡蝶の夢の話では、夢と現実ははっきりと区別されている。
私の方は、夢が越境して現実に入り込み、
現実の記憶として定着したという異常なものだった。
そのことがあってか、楓が心の中にしっかりと根を張っている。
宿の玄関には、今、現実に楓が存在し、木の葉を散らしている。
決して、これは夢ではないと思うが、果たして・・
参考:荘子 今から2300年ほど前の中国の思想家
《胡蝶の夢》
原文読み下し:「周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか」
訳文:「私(荘子)が夢の中で胡蝶となったのか、それとも、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て私(荘子)となっているのか、どちらが本当かわからない」